こんにちは!
マダム・アフロよ。
楊貴妃やクレオパトラ、
歴史を動かした背景に存在する
美しい女性は、伝説となって
今の私たちの心にも
ドキドキと夢を与えてくれるわね~!
今回ドキュランドで取り上げられる
「マタ・ハリ」もその一人。
ダンサー・ストリッパーとして活躍し
第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランスに捕らえられ、
有罪判決を受けて処刑された伝説の踊り子さん。
謎に包まれた彼女の人生を調べてみたので
良かったら一緒に見ていってねー!
出典:Wikipedia
- 伝説の女スパイ「マタ・ハリ」、その数奇な運命は?
- マタ・ハリに子供はいたの?画像と胸当てのエピソード!
- マタ・ハリは実は無実だった!?ドキュランドに登場!
目次
1.伝説の女スパイ「マタ・ハリ」、その数奇な運命は?
マタ・ハリ(Mata Hari)は1876年8月7日
オランダフリースラント州・レーワルデン生まれ。ア
ムステルダム生まれの父親アダム・ツェレと
フリースラント系の祖先をもつ母親
アンテェ・ファン・デル・ムーレンの間に生まれた
マタ・ハリの本名はマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ
(Margaretha Geertruida Zelle)。
4人兄弟の長女として生まれたマタ・ハリは
唯一の女の子ということもあって
父親からすごく溺愛されたみたいね。
石油産業への投資の成功や
人気帽子店の経営で裕福だった実家で
何不自由無い生活を送っていたマタ・ハリ。
13歳までは上級学校に通えたとのこと。
箱入り娘のお嬢さん…といった感じかしら?
羨ましい限りだけど、だからこそ
転落の落差が激しくなるのね(*T^T)
事態が一変するのは
マタ・ハリの父の石油株投資への失敗!
損失を借金で補填すると、
その借金は雪だるま式に増えていき、
ついには1889年に破産!!( ノД`)
その後両親は離婚。
マタ・ハリと兄弟たちは、
それぞれ別の親戚に引き取られることに。
母親は1891年に死去。
一方の父親は1893年2月9日に
スザンナ・カタリーナという女性と
再婚してるあたり、なんだか怒りを
覚えるのはアフロだけかしら(・ω・;)
マタ・ハリは後見人のいるライデンに移住。
自立・独立するために、
ここにある幼稚園で先生になろうと働くの。
が、その学長がマタ・ハリに魅了され(笑)
気を悪くした後見人はマタ・ハリを
施設から追放!( ゚Д゚)
…「美し~さ~は、罪~♪」を
地でいく人生ね…( ̄▽ ̄;)
幸福な人生を望むマタ・ハリは19才の時、
新聞に掲載された結婚相手募集の広告に応募。
21歳年上のオランダ軍将校
ルドルフ・ジョン・マクリード大尉と
出会いからわずか100日足らずで電撃結婚!
ようやく人並みの幸せを
手に入れたかに見えたマタ・ハリ。
旦那さんに連れ添って
結婚後は駐留先のボルネオ、スマトラ、
そしてジャワへ同行。
だけど、元々そこに愛はなく、
あるのは大きな年齢さと価値観の違い…
さらに旦那さんは女グセが悪く
しかも暴力をふるったとか。
夫婦仲はすぐに悪化し、
結婚から7年後の1902年に離婚。
離婚したマタ・ハリはオランダへ帰国し、
さらに職を求めフランス・パリへ。
なかなか苦労の生活を送っていたのね。
ところが、そんな彼女に転機が!
友人のパーティーの余興で
見よう見まねのジャワ舞踊を披露。
それが大好評!!
これをきっかけに1905年、
エキゾチックな容姿を活かして
ダンサーとしてデビューすることに!
その時の触れ込みが
「インドネシア・ジャワ島からやって来た王女」
「インド寺院の踊り巫女」というから
なかなか面白いわねー!(*▽*)
「オリエンタル・スタイル」のショーは
興行的にも大成功で、話題となっていき、
小さなサロンで踊っていたマタ・ハリは
やがてヨーロッパ全土を席巻!
遂にはイタリアのミラノ・スカラ座で
公演を果たすまでになったのね!!
出典:Wikipedia
ちなみに「マタ・ハリ」の名は
この辺りから名乗るように。
観客受けを狙いより東洋的な
「マタ・ハリ」の由来はムラユ語で
(マレー語またはインドネシア語)
「太陽」あるいは「日の眼」を
意味するらしいわ。
彼女らしい魅惑の芸名ね~(*^^*)
出典:Wikipedia
こうして社交界の華となった彼女はまた
高級娼婦としても人気を博し、
幾多の政治家や貴族…そして、
敵同士だったドイツ・フランスの
高級士官ともベッドを共に
することに…!!( ゚Д゚)
その自由奔放さが仇となったのか
戦局が大詰めとなった頃に
二重スパイの嫌疑をかけられてしまうのね(T^T)
1917年7月24日、マタ・ハリは
有罪となり死刑判決が下され、
同じ年の10月15日に、
サンラザール刑務所にて銃殺刑に…。。
若干40才で幕を閉じた
マタ・ハリの波乱万丈の人生。。
彼女の持って生まれた美しさが
計らずも彼女の命を縮めた印象を
受けるわ…。
美人薄命とは良く言ったものね。
2.マタ・ハリに子供はいたの?画像と胸当てのエピソード!
波乱万丈の人生を送った
マタ・ハリことマルガレータ。
出典:Wikipedia
ストリップダンサーとして活躍を始めたのは
離婚後の29才からというから驚きね。
さらに、それまでに実は
二人のお子さんを産んでいたとのこと!
いやいや、子供を二人の産んでの
この体型・スタイル・美貌は凄いわ(・・;)
出典:Wikipedia
ただストリップの際も
ブラジャー(胸当て)は取らなかったようで
一説には胸が垂れているのを気にして…
という噂もあるみたい。
出典:Wikipedia
勝手な想像だけど、
母乳で育てるとそうなるわよねー(^_^;)
子供に対しては愛情を持っていたと
信じたいところね。
そのマタ・ハリの子供さん、
一説には毒殺の噂もあるの…Σ( ゚Д゚)
女遊びが大好きだった旦那さんが、
現地の娘さんに手を出して、
その報復として殺されたという話も…。
これが事実だとすると
いたたまれないわね…(*T^T)
【追記】
息子ノーマンの死は
夫が性病(梅毒)を患い、
それをもらったマタ・ハリから
体内の息子にうつったためか、
治療に使った「水銀」毒によるものか
というのがドキュランドで
語られていたわね。
しかも、それをマタ・ハリのせいだと
責め立てる夫…こりゃ、いかんわね(・_・;)
娘のノンも同じ病気にかかったというから
お父さんの女遊びの飛び火は
本当に大きかった感じ。。
娘が傍にいたら、この道を進むことは
無かったであろうマタ・ハリ。
本当に数奇な運命をたどっていったのね。
3.マタ・ハリは実は無実だった!?ドキュランドに登場!
小麦色の肌、黒々した髪に
エキゾチックな光を放つ黒壇の瞳。。
敵対するドイツ人・フランス人両方の
兵士たちと枕を共にしたマタ・ハリが
非常に低いレベルで諜報的な働きをしたことは事実。
だけど、その情報が独・仏双方にとって
大きな意味を持つものであったかというと
そこは疑問視されているのね。
むしろ、今は、戦況の悪化の責任転嫁のために
マタ・ハリは都合よく二重スパイに
仕立て上げられた…という説が強いわ。
当時、フランスは戦争において劣勢で、
政府は戦争の被害の責任の所在を
追及されていたのね。
その軍事上の失敗を、
「すべてマタ・ハリのせい」とすることで
様々なものからの追及から逃れることが
出来て、政府的には好都合だったとのこと。
戦争の状況が悪いのも、
輸送船がUボートに沈められたのも、
全てはマタ・ハリの二重スパイのせい!!
…いやいやいや、アカンやろ~!(;・∀・)ノシ
そう考えると本当に
悲劇の女性だったのね、マタ・ハリは。
彼女については、
「裁判の際は処刑を免れるため
妊娠していると支援者より申告を
勧められたが本人が拒否した。」
「処刑の際、銃殺隊は
マタ・ハリの美貌に惑わされないよう
目隠しをしなければならなかった」
などなど、いろいろと尾ひれが付いていそうな
伝説や噂話があるけれど、
本当のところはどうなのかしらね?
今日のドキュランドでも取り上げられるけど、
正直なところ、
ちょっと(いや、かなり)美しい女性が、
思いのまま自由奔放に生きていたところ、
社会の闇に呑まれて葬られた、って
ところかしら…( ̄▽ ̄;)
出典:Wikipedia
こうして「伝説の女スパイ」となったマタ・ハリは、
今もたくさんの人に語り継がれ、
これからも名を残していくことになるのね。
本人が望んだのは
こういう名声の残し方だったのかしらね~?
まとめ
いかがだったかしら?
伝説の女スパイ「マタ・ハリ」。
父親の事業の失敗による一家離散。
愛のない結婚の失敗。
そしてダンサーから高級娼婦となり
ヨーロッパを席巻したとの
二重スパイ容疑による銃殺刑。。
…壮絶ね( ̄▽ ̄;)
父親の事業の失敗がなければ、
裕福なお嬢様として一生を終えたのかしら?
あるいは、ここまで
美しい容姿をしていなければ
却って穏やかな日々を過ごしていたかも
しれないと思うのはアフロだけかしら?
ずば抜けた容姿がなくても
日々を穏やかに平穏に暮らせるのって
一番の贅沢かもしれない…って
つくづく思ったアフロよ。
今日も最後まで読んでくれて
ありがとうねー。