美谷島邦子(日航機墜落事故遺族)の絵本「けんちゃんのもみの木」が泣ける!いせひでこが描く御巣鷹山の母子の愛

こんにちは。

マダム・アフロよ。

1985年8月12日の

日航機ジャンボ墜落事故…。

事故を知っている人は、

あの時、自分が何をしていたか

よく覚えているというわね。

かくいうアフロも、あの日は発熱して、

両親が病院に連れていってくれる車内で

この放送を聞いたのを覚えているわ。

あの頃、小学生だったアフロも

今やアラフォー…

事件を知らない世代も増えたでしょうね。

あの悲しい出来事の中でも、

一際辛いのが9歳の息子を失った

美谷島邦子(みやじま・くにこ)さんのお話。

今回、色々と調べてみたけれど、

同じ子を持つ母として、

本当に胸が張り裂けそうになったわ。

そんな美谷島邦子さんが

事故から35年の月日を経て

いせひでこさんの美しい挿絵と共に

紡がれた息子さんの物語

「けんちゃんのもみの木」

けんちゃんのもみの木

出典:Amazon

様々な想いが去来し、胸がいっぱいになる

この美しい絵本と美谷島さんについて

今回は調べてみたので、

良かったら一緒に見ていってね。

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1.1985年8月12日…あの日

美谷島邦子さんの次男、

美谷島健くんは当時9才。

三人兄弟の末っ子で野球が大好き。

家族の中で一番年下ということもあって

みんなに可愛がられていたみたい。

PL学園が大好きだった健くんは

夏の甲子園を見るために、

関西に住む親せきの家に

生まれて初めての一人旅へ。

上のお兄ちゃんたちも

同じくらいの年齢に一人旅を

していたみたいなのね。

それで、「ぼくも行ってみたい」と

挑戦したみたい。

新幹線もあったけれど、

ご自宅が羽田に近いので、

せっかくだし飛行機で…と

あの日航ジャンボ機に搭乗。

搭乗口で「バイバーイ」と

手を振って出かけて行った健くん。。

それが最後になるなんて、

誰も想像つかなかったことでしょう。

素材・子供

その夜、臨時ニュースで

健ちゃんが乗った飛行機が

消息を絶ったことを知ったご両親…。

混乱しつつ、健くんの着替えと

大好きなオレンジジュースを持って、

現場近くに駆け付けつけるも、

体育館のような所で待機させられ

情報も全く入ってこず…。

不安の中、何もできずにいた

ご両親の心を思うと

いたたまれないわね。。

この時、生存者救出の様子が

放送されたことを覚えている人も

多いんじゃないかしら?

その貴重なシーンを撮影したのが

フジテレビ技術局のカメラマン・

樋口一雄さんという方なんだけれど、

実は健くんのお父さん・

善昭さんの高校時代からの

友人だったのね。

善昭さんは樋口さんに連絡を取り、

状況を伝えて相談…樋口さんは

善昭さんに場所を伝えて、

そこに向かうよう促されたの。

こうして美谷島邦子さんと善昭さんは、

険しい山道を必死に歩き、

関係者として初めて現場入り。

だけど、そこで見た現場の惨状は

とても言葉にできないもの…

そこまで「もしかしたら…」と

かすかな希望を持っていた

ご両親だけれど、現場を直接見て、

生存は絶望的だと知るのね。

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2.日航機墜落事故が美谷島夫妻に与えた傷と絆

大切な我が子を失う…

それだけでも十分悲しいことなのに、

事態は更に過酷だった様子。

現場から運ばれてくる遺体は、

部分遺体と呼ばれ、

そのほとんどが完全な形を

留めていなかったのね。

遺体を安置所となった群馬県藤岡市の

藤岡市民体育館は地獄絵図と化した…と

当時、この事故の検屍と身元確認の

責任者として指揮をとった

飯塚訓刑事官が、その著書の中で

語っていらっしゃるわ。

520人の身体が、

2065体の遺体となって検屍された…

想像をはるかに超えた

惨劇だったことが伺えるのね。

美谷島さんは息子の健くんを

指で身元確認されたとのこと。

着ていた緑のシャツの切れ端、

チケットの切れ端、そして右手…、

それがご自宅に連れて帰ることができた

健くんの全てだったみたい。

子どもを失う、ということだけでも

想像を絶する苦しみなのに、

家に連れて帰れるのが

愛しい我が子の一部しかない…

もうアフロは、想像することすら

心が拒絶してしまったわ。

素材・絶望

事故後、心を失ってしまった

美谷島邦子さん…

2か月後、そんな彼女の元に

四国からある一本の電話が。

それは健くんの隣の席に座っていた

女性・能仁怜子(当時22才)さんの

お母さまからだったそう。

「私の娘は優しい子でした。子どもが大好きでした。きっと健ちゃんの手をしっかりと握っていたと思いますよ」と言ってくださったんです。

もう、そのことばを聞いて、私はバラバラになっていた、砕けていた心を、本当に自分を取り戻すことのできる、そんなことばになって……。

(中略)

そのお母さまも、大切な大切なお嬢さんを亡くして、でもそんな中で私にことばをかけてくださった。

それが本当にありがたくて、ことばを失うくらい、うれしかったですね。

出典:NHK・読むらじる

その電話をきっかけに、

邦子さんは事故で家族を失ってしまった

遺族の方々に連絡をとるようになり、

これが遺族の集まりへと繋がっていくのね。

やがて美谷島邦子さんは、その事務局長に。

そして、ご遺族の方々の話を聞き、

一緒に涙し、集会を開き、会報をつくり、

文集を出す…と、真摯に、精力的に

活動を行ってこられたの。

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3.美谷島邦子(日航機墜落事故遺族)プロフィール

改めて美谷島邦子さんの

プロフィールについてご紹介。

美谷島さんは昭和22年生まれ。

短大を卒業するとすぐに

保険会社に勤めていた

夫の善昭さんと結婚し、

この事故が起きるまで、

平凡な三児の母として

専業主婦をされていたみたい。

あの事故が起きた後、遺族でつくる

「8・12連絡会」事務局長

引き受けた美谷島さん。

55歳のときには受験勉強をして、

国家資格の精神保健福祉士も取得。

さらに地域の保護司や

「いのちの電話」の相談員などの

経験を経たのち、NPOを立ち上げ、

精神障がい者支援施設を運営、

理事長を務めいらっしゃるわ。

素材・花光

また、国土交通省の

「公共交通における事故による

被害者等への支援のあり方検討会」委員や、

文部科学省の「学校事故対応に関する

調査研究有識者会議」委員等にも就任。

健くんが繋いでくれた絆に

支えられながら、多くの人の

悲しみに寄り添い、

命の大切さを伝える活動をされているのね。

美谷島邦子・いせひでこの絵本

「けんちゃんのもみの木」の誕生秘話や

あらすじ・感想については次のページへ!

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