こんにちは。
マダム・アフロよ。
「そこに山があるから…」
多くの人を魅了して止まない
山という存在。
今は三浦雄一郎さんの
最高齢南米最高峰挑戦が話題に
なっているわね。
こんな素敵な登山家ご夫婦もおられたけれど
今井通子(医師登山家)と高橋和之(ダンプ)カモシカスポーツ創始者の駆け落ち結婚秘話が激レアさんで!子供は?
今回NHKで取り上げられるのは
2018年5月にエベレストに散った若者
栗城史多(くりきのぶかず)さん。
その死はとても悼まれるとともに、
挑戦が無謀だったのでは?という
批判も少なからずある模様。
今回はそんな
栗城史多(くりきのぶかず)さんについて
調べてみたので良かったら一緒に
見ていってね。
プロフィール
出典:https://www.kurikiyama.jp/
栗城史多(くりきのぶかず)
生年月日:1982年6月9日
死亡:2018年5月21日
出身地:北海道瀬棚郡今金町
出身校:札幌国際大学人文社会学部社会学科
目次
1.登山家・栗城史多(くりきのぶかず)プロフィール
栗城史多(くりき・のぶかず)さんは
1982年年6月2日生まれ。
北海道檜山北高等学校を卒業後、
札幌国際大学人文社会学部社会学科に
進学し、卒業されているわ。
大学山岳部に入部した栗城さんは
2002年末からは中山峠から小樽市の銭函まで、
1週間程度の雪山(標高1,000m前後)の
年越し縦走を行ったりするなど、
登山を楽しむ中で徐々に
海外への登山に憧れ始めるように。
2004年5月21日には
マッキンリー登頂(北米最高峰 標高6,194m)を
目指して日本から出発。
実はこれが初の海外旅行だったとのこと。
そして、同年6月12日17時10分に
見事成功されたのね!
だけどこの際、栗城さんの心に
大きな影響を与える出来事が…。
マッキンリー登頂を目指したとき、
周囲からは応援ではなく、
否定の言葉ばかりあったとのこと。
山より高い「否定」という壁が
栗城さんの前にそびえ立った時、
彼を救い、後押ししてくれたのが
出発直前の父親からの電話‥。
空港で取ったその電話で
父親は一言、「信じてるよ」と
声をかけたみたい。
それが栗城さんの、その後の
登山家人生などを支えたとすると、
親の在り方や言葉かけについても
色々と考えさせられるわね。
今の若者らしく(?)
どの山でも「自撮り」が多かった栗城さん。
その様子に目をとめた
あるテレビプロデューサーが興味を持ち、
出来上がった企画が
「ニートのアルピニスト・はじめてのヒマラヤ」。
正確にはニートでも引きこもりでも
なかったようだけれど…
ちょっとメディアの闇も
感じるわね…(;・∀・)
その中でヒマラヤのチョ・オユーから
インターネット番組に向けて動画を配信。
一躍、有名になることに。
そこで「ありがとう」という
コメントをもらって、自分の登山が
人に勇気を与えていることを
知った栗城さんは、
2009年からは「冒険の共有」として、
インターネット生中継登山や動画配信を
していくことを決意するのね。
そうして6大陸の最高峰を登り、
8000m峰4座にチャレンジ!
エベレストのベースキャンプからは
「世界一標高の高い流しそうめん」、
そして7000m 地点からは
「世界一標高の高いカラオケ」を
行い、生中継されているわ。
その姿は現代を生きるたくさんの
生き苦しさにもがく若者の心を捕え、
魅了していったのね。
栗城史多(くりき・のぶかず)さん自身、
冒険の「志」…目的として
見えない山を登っている全ての人達の支えになること
出典:https://www.kurikiyama.jp/
と仰っておられるのね。
登山の他に、企業や学校で
応援し合うチーム作りと、
人材育成を専門とした講演を行い、
人材育成のアドバイザーとしても
活動されていた栗城さん。
これから…という時の栗城さんの若すぎる死は、
本当に残念の一言に尽きるわね。。
2.栗城史多(くりきのぶかず)の登山スタイル「単独無酸素」への疑惑
栗城史多(くりき・のぶかず)さんは
自身の登山活動において
「日本人初となる世界七大陸最高峰の
単独無酸素登頂に挑戦している」
というスタイルを
マスコミに向けて発信されていたよう。
ちなみに登山の世界における
一般的な「単独登山」とは‥
登山の行程の全てを一人で行い、
初登頂者のベースキャンプを基準にして
ベースキャンプより上で
他者からのサポートを一切受けず、
あらかじめ設営されたキャンプ、
固定ロープ、ハシゴ等も使わずに
登ること(アルパインスタイル)。
出典:Wikipedia
とされているわ。
それに対して栗城さんは
ベースキャンプから自らの荷物を
全て背負い登頂することのみを
「単独登頂」としていたので、
登山家の本筋とは離れている…という
見解も少なからずあった様子。
実際、登山の際に
現地人ガイドがいることが義務付けの
キリマンジャロにおいても、
「単独登頂」をした、とする栗城さん。
また「無酸素」についても疑問の声が。
これは、酸素ボンベを使用しないで
登ることを指すようなんだけれど、
栗城さんは「酸素ボンベ」を使用したことを
公言したり、生中継で放送されたり
していたみたい。
こういうことの積み重ねが
生粋の登山家や、山に関わる人からすると
かなり胡散臭く感じられたんでしょうね。
…最初に掲げた
「単独無酸素」という言葉が一人歩きして
収集がつかなくなったのかなぁ。
「単独」や「無酸素」にこだわらなくても
良かったんじゃないかなぁ…って
個人的には思うんだけれど。。
挑戦されていることは本当に凄いことなのに、
そこに商業的なものも含めた「裏」を感じると、
特に純粋に「登山」と向き合う人にとっては
悲しい気持ちになるのかも。
結果的には、そういうことも栗城さんを
登山界で孤立させていったんじゃ
ないかなぁ…なんて感じたりするのね。
3.凍傷で指9本を切断した栗城史多(くりきのぶかず)
何度も夢のエベレスト山頂への
アタックを繰り返していた
栗城史多(くりきのぶかず)さん。
2012年秋にはエベレスト西稜への挑戦。
だけど、この時、両手・両足・鼻に
重度の凍傷を負ってしまい、
右手親指以外の両手指9本を
第二関節から切断し、失ってしまうことに。
‥想像するだけで、ゾッとするわね。。
それでも、その2年後の2014年7月、
栗城さんは過酷な治療とリハビリを乗り越え、
ブロードピーク(標高8047m)への
無酸素・単独登頂を達成!
この世界への復帰を果たされるのね。
そのアタックの中で、栗城さんは
人間の「弱さ」を肯定することの
大切さに気付いた‥と、
著書「弱者の勇気」で語っておられるわ。
「弱者」が小さな勇気を積み重ねていく過程で、
目に見える景色が変わる。
その過程を共有することで
人々に勇気と元気を与えることができれば…。
挑戦における、失敗と挫折を共有します。
なぜなら本当の挑戦は、失敗と挫折の連続だからです。
出典:https://www.kurikiyama.jp/
そんな想いを胸に栗城さんは
指を9本失ってもエベレストに向かい続け、
結果的に2009年から2018年に亡くなるまで、
計8回(うち秋季6回、春季2回)挑戦されたのね。
ただ、これに関しては、指を9本失った段階で、
諦めるべきだったんじゃ…という声も。
岩は掴めなくなるし
ピッケルもちゃんと持てない…。
その状態で健常人でも難しい
エベレストの絶壁・南西アタックを行うことに、
山を知っている人ほど
「なぜ…!?」という声が挙がっているようね。